U薄

大学二回生です 京都に住んでいます

『きっと何者にもなれないお前たちに告げる。』

序文

今回は自分の話をしようと思います。言葉も普段より口語的に、ですますでやっていきます。だである口調でかっこつけてするにはちょっと恥ずかしい内容になりそうだからです。流行りをネタにしたりするのもやめます。そういうのあんまり面白くない気がしてきたし。だから誓ってウマ娘を揶揄したりシンエヴァのネタバレを混ぜ込んだりしません。絶対に!

ところで近頃僕の中ではモンスター烈伝 オレカバトル が熱いんですがご存知の方いませんか?2012年稼働開始のアーケードゲームでキャラの造形とかバトルシステムとかストーリーとか結構良くて僕は大好きだったし今でも結構好きなんですが残念ながら僕の周りは流行りに疎い人ばっかりでみんな全然知らないんですよね。有名なものを知らなければ変人で格好良くて個性的みたいな考え方はさっさと捨てて欲しいと思うし、なのでみんなにはさっさと西院のイオンのモーリーファンタジーに行ってオレカバトル筐体で遊んで欲しいんですが、このところどこでも課題の雨が降っていて予定を捻じ込む隙もなさそうなんですよね。無念極まりないです。ところで、オレカバトルは背景ストーリーをテーマにした漫画をあの出水ぽすかさんがコロコロ系列の雑誌で連載していたこともあったりするんですよね。出水ぽすかさん=約束のなんとかランドって思ってる人が結構多いみたいなんですけど、実際のところは出水ぽすかさんの代表作は『オレカバトル オレカモンスターズ冒険烈伝』(てんとう虫コロコロコミックス)なので覚えておいてくださいね。動きがある激しい絵と表情豊かなキャラクターが魅力の素敵な漫画でした。やっぱり背景描き込めば良いってもんじゃないんですよ。

子どもって共感能力が低い、というか共感できるだけの人生経験がないので感情移入とか苦手でプロットを追うことだけでしか創作を楽しめないじゃないですか。僕もそういう感じの小学生だったので、主人公とその仲間の苦難と活躍をじっくりハラハラ見守るタイプの漫画が好きではなくて、キャラクターが山ほどいてオムニバス的に話が次々生えてくる群像劇の方が楽しめてたんですよね。そんなわけで、ホビーものの漫画も主人公がカードの力を悪用する闇の組織と戦うみたいな漫画よりも、カードの背景ストーリーをそのまま描いてくれる漫画の方が好きになりやすかったんです。山浦総版オレカバトルより出水ぽすかオレカバトルの方が好きだったわけです。松本しげのぶデュエル・マスターズは買わなかったけど伊原しげかつ版デュエル・マスターズの単行本は持ってました。次世代ワールドホビーフェアで買ったやつです。図書カードが使えなくて焦った記憶があります。漫画ではめちゃくちゃフィーチャーされてたしやっぱりE3の主人公はテスタ・ロッサであるべきだったと思うんですけどなんで本家(カードのフレーバーテキストをなぞることで完成するストーリー)の方ではあんなに扱いが悪かったんでしょうかね。今でも結構不服です。『不屈!!熱血!! テスタ・ロッサ』、めっちゃかっこいいし超好きだったのにあっさり死んじゃうんだよな......。

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『二人の友情をまもるべく、一人の男が食い止める。その名は、テスタ・ロッサ!!』かっけー!

 

 ちなみに以上の内容は記事の本題とは全く関係がないです。『オレカバトルデュエル・マスターズのことが書きたい!!』という気持ちだけで書きました。ところで誰かデュエマしませんか?あと禁時王の凶来の予約できてる人いたらボックスちょっと分けてください。

以下、目次です。

輪るピングドラム』について

幾原邦彦監督作品。2011年放送。最近時間があって気分が乗った時に四話づつくらいまとめて見てますが、僕が好きな要素ばかりが詰め込まれていて、この先の展開が一切面白くなくても多分好きでいられちゃうんだろうなと思うくらいに気に入っています。ちょっと制作者のスケベ趣味が目に余るのだけは嫌だけど。一生下着ネタしてるペンギン要るか?

ともかく輪るピングドラムはかなり好きなアニメで、昨晩ちょうど12話までを見終わったので感想を書いちゃいたくなりました。なので感想をちょっぴりだけ書きます。ただ感想である以上、自分の話や他の作品の話を交えながらということになり、今回のブログの趣旨はそれです。自分の話にピングドラムを混ぜるという方が正しい表現かもしれないです。

ところで輪るピングドラムは今度10周年記念で映画化します。公開前に、アニメ版を一気見して備えておきませんか?

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それではやっていきます。

「『生存戦略』しましょうか。」

せいぞーん!せんりゃくーーーーーーっ!!

---プリンセス・オブ・ザ・クリスタル

 

輪るピングドラムにおけるキーワードの一つに、『運命』という単語があります。運命の輪がぐるぐるするわけです。主要人物たちのうち、高倉冠葉と高倉晶馬は運命という言葉が嫌いで、荻野目苹果は好きだそうです。高倉陽毬はどうなんだろう?

輪るピングドラムのあらすじはこうです。高校生の冠葉と晶馬には不治の病に侵されて余命わずかな妹、陽毬がいて、きょうだい三人で水族館に行った日に陽毬は死んでしまいます。霊安室で横たわる妹の隣で兄弟が悲しみに暮れていると、陽毬がかぶっていたペンギンの帽子の目が輝きだし、突如として陽毬は起き上がります。「生存戦略!」と叫びながら。起き上がった彼女の人格はしかし全く違うもので、陽毬の身体を乗っ取った陽毬でない誰かは驚く二人にこう告げます。「妾はお前達の運命の至る所から来た。妹の命を助けたいのなら、ピングドラムを手に入れろ。」セリフや話の流れは説明しやすいように少し端折ったり組み替えたりしてますが、だいたいこんな感じです。陽毬を定められた死の運命から逃すために、二人の兄は奮闘しますが、そこにはまた別の運命が待ち構えていて......という話です。

運命という単語は、高倉兄弟の視点においてはかなり残酷な概念として使われています。「生まれながらの罪に罰を与えるシステム」であるかのような言い方さえされます。しかし、荻野目苹果の視点においてはそうではありません。彼女が携える未来が書かれた「運命日記」と、そこに記述された「M計画」は、彼女にとっての支柱であり、前に進むためのいわば希望です。彼女には複雑な事情があって、「運命」の遂行は半ば願掛けに近い目的意識と徹底した自己犠牲が伴っていますが、それでも彼女は自分が決めた方向に進むことができているし、昨日と今日を生きることができています。悲劇的な描かれ方をしてはいますが、「運命日記」の存在を、僕は少し羨ましいと思ってしまいます。生きる意味があらかじめ決められてると信じられるのってちょっと素敵じゃないですか?

 

 僕は運命という単語が結構好きです。理由は二つあって、一つはわりかし絶対的で縋れる物があるのっていいなって思うから、です。運命って言葉だけで、納得したり諦めたりできるのは結構便利だと思います。僕は一時期キリスト者になろうとしてたんですが、それもキリスト教の運命論的なところ(苦難を神が与えた試練だと読み替えたりとか、選択を神の導きだと説明したりとか)に惹かれたからでした。二つ目の理由は少し後ろ暗くて、それは何もかもを台無しにしてやれる力がある物に惹かれてしまうから、というものです。運命という単語に全部まとめて仕舞えば、努力とか才能とか、それから生まれる権威とかが、全部どうでも良くなってくれるじゃないですか。運命というか、決定論と言った方が正しいかもしれません。一人一人大切な人を大事にしたいなっていう気持ちとは別のところで、僕にはそういう風に、全ての人の尊厳とか価値とかを一緒くたに破壊してやりたい、そういうパワーのある概念を振り回してやりたいという気持ちも少しあって、これは少し後ろ暗いというか、申し訳ない感じがします。『それも運命なんだよ。』と言うだけで、人の苦難も成功もまとめて台無しにできるとすれば、そこにはちょっと抗い難い魅力があると思います。統計とかも同じ理由でちょっとだけ好きです。数字は人の尊厳を容易く破壊できるので危険だと思います。だから僕は数学ができる奴は悪い奴だと思うし嫌いです。これは大きな嘘で、数学ができるやつを見るとコンプレックスが刺激されるので嫌なだけです。知り合いにめちゃくちゃ数学ができそうな同期が居て、「こいつは数学系に行くんだろうな、嫌だな。」と思っていたんですが聞いてみたら宇物を目指しているらしくて安心しました。

運命はかなり強力な概念です。そもそも、『論理的に強力であること』が運命の定義の一つであると言っても構わないからです。運命やそれを定める神の存在を想定する時、それらは世の中にあるあらゆる枠組みを定義する以上、全ての外に置かれるわけですが、そうなると『神』を定める枠組みが存在し得ません。というわけで、神は定義不可能なのですが、『定義不可能な存在が神である』という矛盾した定義が与えられて観念上に存在しています。矛盾を包括した上で人を納得させている概念のことは、無敵と呼んでいいはずです。

神に(論理上で)抗うのは難しいと思います。しかし、運命ならもう少し余地があります。多少の余白が認められている概念のはずです。私たちが『運命』を語るとき、重要な事件の一つ一つは確定したものとして(絶対的なものとして)扱いますが、それを結ぶ道筋には『自由さ』『ランダムさ』を許しているはずです。「どんな人生を送ったとしても、君と巡り合ったはずさ。」みたいなやつです。「巡り会う」という事象は確定していて、運命によって定められているとしていますが、それ以外の人生の部分は余白としてあります。むしろその部分によって「巡り会う」という『運命』が強調されていると言ってもいいでしょう。

『運命』は道筋ではなく、「始点」と「終点」によって定められています。逆に言えば、視点から道筋をどんな風に変えても同じ結末にたどり着いてしまう、ということで、これが『運命』という概念の強さなわけです。僕はこれを、リソースの限度という概念に置換して捉えています。

『運命』という概念と同じくらいポピュラーに使われている言説として、「どんな事象でも起こる可能性自体は否定できない。」というものがあると思います。どんなと書いても、程度問題にはなります。例えば「適当にマークシートを埋めたとして、それが満点になる可能性はあるにはある。」とか、その程度の言説を僕は想定しています。世の中には無限とは言えなくても、数え切れないほどの可能性が存在します。しかし『運命』の中においてはそうではありません。『運命』によって結末Aにだけたどり着く人は、結末B、結末Cにたどり着くための可能性を最初から剥奪されています。これをリソース不足によるものだと僕は解釈しています。つまり、それぞれの『運命』は何らかの、過不足を考えられるリソースを含有していて、その大きさが人の持ちうる可能性の数に作用していて、結果的に『終点』を定めている、という考え方です。ドラえもん第一話にあるやつです。セワシくんが生まれるということは確定しています。彼が生まれないという事象を起こすには、のび太の運命のリソースが足りないのです。東京と大阪の例に則れば、例えば大災害が起こって大地に亀裂が生まれてどうやっても大阪には行けなくなってしまう......というようなことが起こるために必要なリソースが、余裕がその運命にはない、ということです。

もちろん『神』も『運命』も詭弁です。それらが矛盾を包括する以上、自分がその矛盾を許容さえしなければ、簡単に跳ね除けることができるはずです。しかし一度信じてしまえば、「そういうものがあるんじゃないか」と思ってしまえば、運命は強大な存在感を持って私たちの前に立ちはだかります。

高倉兄弟は自分たちが背負っていると思い込んでいる「罪」の存在によって、運命の存在を強く意識してしまっています。荻野目苹果は自らが納得して強い意志で行動するために、運命の存在を強調します。

彼らが自ら仮定する『運命』から逃れるためには、制限されたリソースを極大に増やす裏技が必要です。結末Ωを生み出さなくてはなりません。そのための手段は第一話から開示されていました。ピングドラムです。

ピングドラムは、それが何かはわかりませんが、しかし裏技の起動のためのツールであることは確かです。リソースを極大に増加させるための、別の神との取引のための触媒なのです。

しかし、取引である以上は対価が必要です。その対価は、もしかしたら別の誰かの人生かもしれません。もしも、その犠牲も含めてより大きな『運命』のうちだったとすれば、「誰かが失わなければいけない」ことが決定していたとすれば、それは絶望に他なりません。

運命に抗うことばかり書いていましたが、別に運命に委ねてしまうという選択肢だってあります。大きな絶望が人生にあるとしても、その絶望の隣で静かに息をしながら、ある程度の満足感を持って生活を営むことは可能です。どうせ皆いつかは死ぬんです。それまで生き続けるために、あくまで運命に逆らわずに人生をおくることは、一つの正しい『生存戦略』でしょう。

しかし、運命と一緒には生きられない場合は、運命と一緒にいては死んでしまうというのなら、その選択肢は取れません。抗う他に選択肢はありません。あるいはそのまま息絶えてしまうか。

例えば高倉冠葉です。彼に今与えられている運命は、彼には到底受け入れられるはずがないものです。妹に家族愛以外の愛情を向けてしまう彼が、「兄妹であれ」「家族であれ」「それだけであれ」と告げてくる社会と世界に対して、従順に生きていくことは果たしてできるのでしょうか。運命に決められた通りに、彼が自分の思いを秘匿して、それで呼吸をし続けたとして、果たしてそれは彼の人生なのでしょうか。生きていると言えるのでしょうか?彼にとっての『生存戦略』は、従うことではなく抗うことなのではないでしょうか?

卵の殻を破らねば、我々は生まれずに死んでゆく。(少女革命ウテナ)

私たちは、人生のさまざまなタイミングで外部からの要請を受けます。その度に選択を迫られるわけです。抗うか従うか。もちろん二分できない場合も多いですが。時間軸を大きくとれば、例えば「良い大学に入って良い企業に行く」というレールに乗るかどうか、くらいの規模の問題においては、僕たちは二種類の方向性のうち、どちらかに偏るでしょう。

私たちの人生の、『生存戦略』。 女王がいない世界で、それでもピングドラムを見つける方法はあるんでしょうか?

 

人の世界、運命は本当にあるのか?もし、人が運命を無視して、本能も遺伝子の命令も無視して、誰かを愛したとしたら。神様、そいつは本当に人なのか?---高倉冠葉

蝎の心臓

僕が今まで読んできた本を全部かき集めて家の書斎に並べるとします。その時、机から一番手が届きやすい本棚に置く本はなんだろうか、と考えると、ラインナップは結構すんなり浮かんできます。「モモ」「星の王子さま」「はてしない物語」「ローワンと魔法の森」「蜘蛛の糸」...........「銀河鉄道の夜」も、その中の一つにあるでしょう。母親が影絵の絵本を持っていて僕はよく読んでいましたが、それ以外にも色々な機会でこの作品に触れました。プラネタリウムで上映していたのを見たのが一番印象的な記憶です。僕は宮沢賢治の書く作品がかなり好きで、「銀河鉄道の夜」はその中でも一番のお気に入りです。輪るピングドラムを見るきっかけになったのも、銀河鉄道の夜をモチーフにしているという話を聞いたからです。キャラクターの名前を見てみると分かりやすいと思います。ところで、僕が二番目に好きな宮沢賢治作品は「ポラーノの広場」です。誘蛾灯って良いですよね。

この間どうしても手元に銀河鉄道の夜の文庫本が欲しくて、書店が時短営業な中、ラーメンを食いに行った帰りに無理を言って西院のTSUTAYAに向かってもらって閉店ギリギリで購入しました。それからしばらく寝かせていたんですが(これは本当に無茶苦茶で、そんなに欲しかったなら買った瞬間に読めよという話ですが、そう気持ちは単純でもなくて、部屋にあるという事実の方が読む体験より欲しかったりするのです。第一読むだけなら青空文庫でも良いので。とはいえ、無茶苦茶であるのは確かで、車を走らせてくれた彼にはかなり感謝しています。)この間ピングドラムの1クール目を見終わった後に読み返しました。何度読んでもそのたびに大好きだって思える作品があるの、無上の幸福ですよね。

銀河鉄道の夜には素敵な登場人物がどっさり出てくるのですが、特に好きなのはやはり、(もちろんジョバンニとカムパネルラを除けばですが)海に沈んだ三人組です。姉、弟、二人の家庭教師、という組み合わせです。ジョバンニ達がこの三人と交わす会話は、現代文の授業風に言えば、この物語の本質にかなり肉薄したものになっています。『アクタージュ』で星アキラが演じていたのが家庭教師の役ですから、銀河鉄道の夜をきちんと知らなくても、ジャンプを読んでる人には彼らが大体どういうことを喋っていたのかがわかると思います。僕は星アキラもこの家庭教師も大好きなのでアクタージュのあの回は超最高でした。

話を戻します。三人は日本で待つ姉弟の父親の元に向かって、客船に乗って太平洋を渡っていました。その最中客船は氷山にぶつかり、乗客は救命ボートで脱出することになります。しかしボートに乗れる人数には限りがあって、助かるためには誰かを押しのけなければいけませんでした。選択権は最も年長の家庭教師に委ねられました。

葛藤の末、彼は覚悟を決めて船が沈むのを待ち、そして三人は渦の中に取り込まれて銀河鉄道にやってきます。家庭教師がするこの語りは、後に明らかになるカムパネルラの最期を暗示させ、またジョバンニと読者の視野を世界全体にまで広げる役割を果たしますが、三人の登場によって示される物はこれだけではありません。もう一つ、重要な話があります。

姉弟の姉の方がする語りです。列車の窓から見えた蝎の火にまつわる話です。

むかしのバルドラの野原に一ぴきの蝎がいて小さな虫やなんか殺してたべて生きていたんですって。するとある日いたちに見附(つ)かって食べられそうになったんですって。さそりは一生けん命遁(に)げて遁げたけどとうとういたちに押えられそうになったわ、そのときいきなり前に井戸があってその中に落ちてしまったわ、もうどうしてもあがられないでさそりは溺れはじめたのよ。そのときさそりは斯う云ってお祈りしたというの、 

ああ、わたしはいままでいくつのものの命をとったかわからない、そしてその私がこんどいたちにとられようとしたときはあんなに一生けん命にげた。それでもとうとうこんなになってしまった。ああなんにもあてにならない。どうしてわたしはわたしのからだをだまっていたちに呉(く)れてやらなかったろう。そしたらいたちも一日生きのびたろうに。どうか神さま。私の心をごらん下さい。こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなの幸のために私のからだをおつかい下さい。

って云ったというの。そしたらいつか蝎はじぶんのからだがまっ赤なうつくしい火になって燃えてよるのやみを照らしているのを見たって。いまでも燃えてるってお父さん仰ったわ。

これはかなり有名な話なのでそこかしこの創作で引用されていて、ピングドラムにも登場します。12話です。プリンセス・オブ・ザ・クリスタルを動かすために、陽毬を生き返らせるために冠葉が差し出した己の赤い魂のことを、クリスタルは蝎の心臓と呼びました。しかし、クリスタルはそれを受け取ることができず、陽毬は助かりませんでした。今の彼は、蝎ではなかったのです。

 

冠葉と晶馬は蝎たり得るのでしょうか。二人の心臓は妹の身体に血を流し込めるのでしょうか?もしそれができたとすれば、ピングドラムとは彼らの献身そのものだったのかもしれません。

蝎も鼬も人間も、いずれ死ぬという事実からは逃れられません。私たちを必ず待っている死は、運命よりよっぽど強力な概念です。たとえ鼬が蝎を食えたとして、あるいは蝎が上手く逃げおおせたとしても、死が少しの間遠ざかるだけです。絶対的な死を前にして、私たちが吸える息がいくらか増えようと、それは誤差です。須臾にして消える蛍光に過ぎません。風前の灯火です。

しかし、献身は夜空の星に匹敵するのです。人の幸を思う気持ちは、夜の闇を照らす永遠の炎になるのです。別の場面で、誰だって、ほんとうにいいことをしたら、いちばん幸なんだねえ』とカムパネルラは言います。それが正しいかどうかはともかく、献身は銀河鉄道の夜の重要なテーマでしょう。

蝎の心臓2

さて、冠葉と晶馬のことを考えてみます。そのために、突然ですがジョジョの話をしたいと思います。第6部のプッチ神父のセリフに、こんなものがあります。『人に対して何かしてあげるという事は......全て「見返り」を期待しての行為だ。人に親切にするのは、自分も親切にしてもらうためであり、 無償の愛というものはない。 無償の愛とは…… 天国へ行くための「見返り」だからだ。銀河鉄道の夜における献身はまさに無償の愛です。ザネリのために飛び込むカムパネルラの勇気は、サザンクロスに彼を届けました。

高倉兄弟の愛はどうでしょうか?二人は共に兄弟で、妹の陽毬ことを思っています。しかしそれは同じ気持ちではありません。似た気持ちですら無いと思います。晶馬は陽毬に口づけをしません。

冠葉は晶馬に比べてなりふり構わず、「正しくない」ことをしてでも陽毬を助けようとします。彼が陽毬に向ける愛情と、陽毬が冠葉に向ける愛情は本当はかなり違うもので、そしておそらく冠葉が本当に求めている愛情も、陽毬から『見返り』として受け取れる愛情とは違うでしょう。冠葉がそれで満足だと思っているのかはわかりませんし、だから正しい『見返り』を欲しているかどうかもわからないのですが、あるいは彼の愛情は無償かもしれません。

晶馬も陽毬を愛することに条件をつけている様子は一才ありません。1クール目の中では、彼の気持ちの根源が何なのか読み取ることができませんでした。ただ、考える余地は少しあります。家族についてです。

晶馬は冠葉とは真逆で、『家族』であることに執着があるように思えます。ちょうど苹果に指摘された通りに。その苹果ですが、彼女もまた家族という形に拘っています。

これも、「それが正しいかどうかはともかくとして」という枕詞がつきますが、ここまでのピングドラムにおいて、家族という単位は子どもにとって「本来あるべき形」として描かれています。主要人物が皆その形を失ってしまっていることが逆説的にそういう描写を作っている、と言った方が良いかもしれません。そして同時に、家族は「愛を生み出す機構」であるという前提も敷かれています。晶馬も冠葉も父親も、陽毬を助ける理由を一才語りません。家族愛は「当たり前」に存在する、一番原初の愛情なのです。

しかし、当然それは事実ではありません。DVや虐待、ネグレクトは存在します。家族愛は無尽蔵に発されるものではないし、当たり前にあるものでも無いです。しかし、それを早期に失った子どもが、家族の復活と家族愛の復活、信頼して身を委ねられる愛情の源泉の存在に期待をすることは、不自然なことでは無いと思います。

さて、晶馬や苹果が家族の復活を求めるとしても、他の「家族」員達がそれを望むとは限りません。冠葉も家族を大切にしていますが、そこにはどこか達観があるような気がします(これは気がするだけ度がかなり高いですが)。苹果の母親と父親はお互いを再び愛せるようには見えません。そして陽毬です。陽毬は家族を大切にしていますが、しかし彼女は自分のために兄達が捧げ物をすることを許すでしょうか?例えば陽毬の代わりに冠葉が死んだとして、陽毬が納得するとは思えません。

結局、家族愛もやっぱり無償ではないのです。他のあらゆる愛情と同様に、エゴイズムと混じり合って存在しているのです。無償の愛であるためには、エゴイズムからの脱却が必要です。サザンクロスの先には至るにはそれが要るのです。あるいはピングドラムを掴むためには。

もちろん、そういう幸を掴まない人生もあります。そうやって別の幸せを手に入れる方法ももしかしたらあるかもしれません。カムパネルラは死にましたが、ジョバンニは生きています。宮沢賢治はジョバンニのその後を描かないことで、希望の存在を示唆したかったのだと思います。死ぬほどの献身とは別の幸の掴み方がある可能性を示したかったのだと思います。ジョバンニはカムパネルラとその最期のことを思って、銀河鉄道の旅のことを思って、生き続けるのです。きっと彼はカムパネルラが言ったような幸を目指し続けるでしょう。その先に美しい何かがあることに、僕はどうしても期待してしまいます。

あるいは、宮沢賢治は誰かが犠牲にならなければいけない世界から脱却する未来の存在を希望していたのかもしれません。晶馬や冠葉や苹果にそういう未来があれば、それが一番良いのですが......。

色々と話を広げてしまいましたが、とりあえず輪るピングドラムのことを話すという建前に沿って結論を書きます。蝎に相応しいのは冠葉のように思えます。

しかし、冠葉が蝎になるその前には一つの大きな選択が立ちはだかります。彼が陽毬に何を求めているのか、その答えを出さなければいけないはずです。そして、その答えが彼の生存戦略と食い違ってしまえば、そこに横たわるのは終わりです。一つの感情に忠実に生きることは本当に難しいことです。カムパネルラだって、ジョバンニをからかうザネリたちを止めることはしませんでした。

冠葉と晶馬は何を選ぶのか。『きっと何者にもなれない』ままなのか、何者かになってしまうのか。2クール目が楽しみです。これを書き終わったら見れます。書き終われ!!!

 

ところで、家族を失った子どもが家族愛を取り戻す手段は他にもあります。新しい家族を作ることです。苹果のM計画はこれとは違いましたが、どのキャラクターも、新しい家族を手に入れることを選ぶことはできます。しかし、そうまでする価値が本当にあるかどうかはわかりません。

レバーの引き手

運命のベルは勝手に鳴ります。そして列車はレールの上を走り出し、約束されたゴールにたどり着きます。結末を変えるためには、レールを変えるには、連結点でレバーを引く人間が必要です。ピングドラムを手に入れる人間が必要です。

運命を変えることは奇跡と呼べるはずです。しかし、それを実行する人間は、罪を引き受けることになります。結末を変えた責任を取らなければいけません。もしかしたら変えた運命は、誰かの人生を轢き潰すかもしれないのです。

そこからボートまでのところにはまだまだ小さな子どもたちや親たちやなんか居て、とても押しのける勇気がなかったのです。それでもわたくしはどうしてもこの方たちをお助けするのが私の義務だと思いましたから前にいる子供らを押しのけようとしました。けれどもまたそんなにして助けてあげるよりはこのまま神のお前にみんなで行く方がほんとうにこの方たちの幸福だとも思いました。

これは先程言及した、家庭教師の青年の語りの一部です。このあと、こう続きます。『それからまたその神にそむく罪はわたくしひとりでしょってぜひとも助けてあげようと思いました。けれどもどうして見ているとそれができないのでした。

彼は自らが罪を背負うことを選べなかったのです。他の子どもや親を犠牲にして助かるという選択をすることができませんでした。彼が善い人であった証ではあります。しかし、善くあることと、従うこととはとても近い距離にあるのです。

運命に従わないことを選ぶには、罪を背負う意志が必要です。冠葉や晶馬が運命を変えるには、ピングドラムを他の望む者たちに与えてはいけないのです。重い覚悟が必要です。彼らが立ち向かうことになる選択は、あるいは彼らの父親がしたそれと同じかもしれません。そして再び、犠牲と運命の渦を作り出すことになってしまう。それがわかっても、決断ができるのでしょうか?

終わり

そろそろ書くのが大変になってきたのでもうやめようと思います。書き始めたときには他にもっと言いたいことがあったし、書いた内容についてももっと良い言い方があったはずなんですが、もう全然思い出せません。構成を考えてから書く癖をいい加減身につけないと卒論とかやばそうで不安です。書き直しとか絶対したくないし。せめて冠葉が踏み潰してきた愛のことには何か言いたかった......。タイトルに書いた台詞のことももっと書きたかったはずなのにどっか行っちゃったよ〜

次はもうちょっとちゃんとした記事を書きたいです。最低限章どうしはちゃんと繋ぎたい。ブログだから良いかな〜にも限度があります。

輪るピングドラム、面白いので見てください。僕はこれから2クール目を見ます。書きたいように100%書けたわけではないですが、途中まで見た時の気持ちを記録しておきたい、という一つの目的にはかなうものができたと思うので満足はしています。続きが楽しみ〜〜〜

読んでくれてありがとうございました。感想は常に募集しています。